宮本百合子の作品2

ああ、海! 海
広い懐の大海
お前の際限ない胸を張れ!
濤をあげよ。
そして、息をのむ大洪水の瞬下に
此あわれに 早老な女の心を溺れ死なせ。
波頭に 白く まろく、また果かなく
少女時代の夢のように泡立つ泡沫は
新たに甦る私の前歯とはならないか。
打ちよせ 打ち返し轟く永遠の動きは
鈍痲し易い人間の、脳細胞を作りなおすまいか。
幸運のアフロディテ
水沫から生れたアフロディテ!
自ら生得の痴愚にあき
人生の疲れを予感した末世の女人には
お身の歓びは 分ち与えられないのだろうか
真珠母の船にのり
アポロンの前駆で
生を
双手に迎えた
幸運のアフロディテ

     *

ああ、劇しい嵐。よい暴風。雨
春と冬との変りめ
生暖い二月の天地を濡し吹きまくる颱風。

戸外に雨は車軸をながし
海から荒れ狂う風は鳴れど
私の小さい六畳の中は
そよりともせず。
温室の窓のように
若々しく汗をかいた硝子戸の此方には
ほのかに満開の薫香をちらすナーシサス
耳ざわりな人声は途絶え
きおい高まったわが心と
たくましい大自然の息ぶきばかりが
丸き我肉体の内外を包むのだ。

ああ よき暴風雨
穢れなき動乱。
雨よ
豊かに降り濺いで
長い日でりに乾いた土壤を潤せ。
嵐よ
仮借なく吹き捲って
徒らな瑣事と饒舌に曇った私の頭脳を冷せ。

春三月 発芽を待つ草木と
二十五歳、運命の隠密な歩調を知ろうとする私とは
双手を開き
空を仰いで
意味ある天の養液を
四肢 心身に 普く浴びようとするのだ。
                    二月十六日
           (大暴風雨の日)

 この間の邦語訳の椿姫の歌うなかに、この受取り(でしたか、書きつけでしたか)を御覧下さいということばがあったが、それが日本語で歌われるといかにも現実感がありましたが、昨今ではそのうたをうたうプリマドンナの腕も、ステイジ用のトランク運びで逞しくなるとは面白い世の中ですね。
 ガソリン払底は、なるほど、郊外の奥にお住居だし、お仕事の関係上、直接でしょう。でもあなたのハンド・バッグのなかは豊富で、汽車がひっくりかえったときの内田さんのように、いくらでもとおっしゃるとすれば、マア豪勢みたいなものではないの。
 私の方の状態は、先ず大笑一番しなければ、ものも云えないような有様でね。おかしいでしょう。八面六臂的欠乏で困ります。原稿紙というものが、この節ではなかなか只ごとならないものになって参りました。何しろちり紙から心配という次第ですから。こんなさっぱりと四角い紙に気持よく朱の線の通っている原稿紙がやがて、昔話になるかもしれませんね。
 炭には困るわ。あなたのお仕事は羨しいと存じます。だって一心に練習なさっているとき、舞台にいらっしゃるとき、云ってみれば寒さ知らずでいらっしゃるでしょう。私たちのように凝っと机にかじりついているものは、冬は炭のいるのを気兼ねしいしいというのでやり切れないところがあります。第一に手がかじかんで、私のこの一ヵ月継続中の風邪のもとは、つい炭が途切れかかったときの記念です。
 それにつれて、昔芥川龍之介の書いていた支那游記のなかのことを思い出します。或る支那の文人に会いに行ったら、紫檀の高い椅子卓子、聯が懸けられたまるで火の気のない室へ通された。芥川さんは胴震いをやっと奥歯でくいしめていると、そこへ出て来た主人である文人が握手した手はしんから暖く、芥川さんは部屋の寒さとくらべて大変意外だったそうです。
 どうしてそんな手をしてこの火の気のない室に莞爾としていられるのかと、猶も胴ぶるいをこらえつつ観察したら、その文人の長上着の裏にはすっかり毛皮がつけられていたそうです。私たちも、そんなあんばいにやりとうございますね。
 全くあなたがお丈夫でもトラックなしではすまないように、私が意気壮でも、手はかじかみましてね。歴史をひもとくと、燃き物と紙の有無とは、常にその社会生活の一般状態を雄弁に物語っているようです。作家の思いは、原稿紙がなくなればどんな紙切れへでも、その紙切れへものをかくような時代の作品を書こうと思っているのでしょう。歌をうたうかたは、唱って寒さもふきとばそうと思っていらっしゃるでしょう。そこがそれぞれ面白いところですね。けれども、どうぞ喉はくれぐれお大切に御活動下さい。

 私も頂きました資料をよんで感じたことですけれども、やっぱり主人公である浦和充子が、子供を一人でなく三人までも殺したという気持が、このプリントに書かれてある範囲ではわからないのです。あれを読みますと、お魚に毒を入れて煮て、それを子供にわけて食べさせて、それをたべて自分も死のうと思ったということです。
 そうすると小さい子と自分とが半分ずつわけて食べようと思っていたお魚の一切を、子供の一人が食べたがったものだからその子にやったというんですね。自分の分まで皆食べさしちゃった。何か人間の気持、親の気持からいって、自分が一緒に死のうと思っている子供に、毒を入れて煮た魚を、お母さん欲しい、お母さん欲しいといったから、さあおあがりといって自分の分まで余計にその子供に食べさせるということは、私どもにはわからない気持です。まあ普通の親でしたら自分は身体が大きいんだし、親だし、だから子供の始末をしてやろうとしたにせよ、半分にしろ欲しがったから食べさしちまうということは、非常に疑問です。つまりこの事件のファクター、素因のプロパーとして特殊の事情として、普通ではわからない心理が充子という人の気持にあります。
 それから観察しているでしょう。こうやって見ていたら、顔を見ていたらだんだん黒くなってきた。そうして足を出したと、それだから苦しますと可愛想だから締め殺したと。
 だけれども、毒をくわした子供の顔を見ているうちに涙にかきくもるといえば通俗小説ですけれども、それは泣けてくるんです。それを冷静に見ている、作家か何かが冷酷な気持でリアリスティックな気持で見ていれば、その段階がわかるでしょうけれど。――もがき始めたので、はっとなって、とりのぼせたというのならわかるけれども、だんだん黒くなったと見ているのはどうもあまり沈着なんです。そういう心理もわかりません。
 それから私いま松岡さんのおっしゃったことで、女の人の具体的な感じかたを非常に面白く思ったんですけれども、私にもあのプリントで被告の身許引受人というのがわからないのです。あれにはただ身許引受人があったから執行猶予にしたとあります。身許引受人というものと、その充子さんという人との関係がわかっていないし、夫とその人との関係がわかっていません。ああいう生活過程をもっている女の人の場合には、ひとくちに身許引受人といってもいろいろのことが考えられるわけです。そういう点もプリントではわからない。