宮本百合子の作品

 彼女は、それとなく皆の方へ振返った。すると、健介が、まるでおせいの望を心の中から読みとりでもしたように、兵児帯の間から時計を出し始めた。
 坐りながら、彼女はごく自然に、
「もう何時頃になりまして?」
と訊くことが出来た。
「余り長くお邪魔しても……」
「何、まだ宵のくちですよ。九時になりますまい? 十二時までは電車があるから、まあゆっくりしていらっしゃい」
 小関は、健介の手許を覗き込むようにしながら云う。
「――もうかれこれ九時過ですね」
 健介は、胸を反すようにしてゆっくり時計を元の処にしまってから、おせいを顧みた。
「そろそろお暇(いとま)にしようか?」
 彼女が何とも云わない先に、主人夫婦は声を励して止めにかかった。
「いいじゃあありませんか、健さんも、どんなに途が遠いったって二時間はかかりますまい?」
 しかし、健介も内心では、もうさほどの興味も持っていないらしく見えた。明朝、出勤時間が早いことを理由にして、座を立ちかけていると、突然、ひどい音をたてて誰かが階段を上って来た。
「誰?」
「僕!」
 入って来たのは、息子の武雄であった。先刻(さっき)、何か学用品を買いに出て、戻って来たのだろう、突っ立ったまま、
「今夜は午市(うまいち)なんだねえ、随分外は賑やかだよ」
と息を弾ませて報告した。
「おや、そうかえ。ちっとも知らなかった……」
 挨拶の中途の、膝をついて息子を見上げていたおふゆは、それで俄に思いついたというように、おせいの方を向いた。
「丁度いい塩梅だ。行って御覧なさいませんか?」
「ああ、そりゃあいい。午市というのはね」
 小関も辞儀をやめにして健介に説明した。
「なか[#「なか」に傍点]に立つ夜市でしてね。植木や何かが主なんだがなかなか盛んなものです――それに何でしょう?」
 彼は、健介夫婦を見くらべながら、にやにやした。
「お二人ともあんな処へは足ぶみもなさらないんだから、ついでにずうっと一廻りして来るとようござんす」
「……さあ」
 健介は、おせいと顔を見合わせるようにして笑った。
「どうしますかね?」
 おせいも、何だか変な心持がした。行って見たいような、また不気味なような。――彼女は、何ということもなく間の悪い心地がした。
「私はどちらでも……」
「一遍は見てお置きなさいましよ。話の種ですわよ」
「御案内役は、私が引受けます。近頃喧しく種々のことを云ったり書いたりする人もあるらしいが、読んだって貴女どこのどんなものだか、外側も知らないじゃあ、話にもなりますまい。またという時はないもんだから、お伴しようじゃあありませんか」
 躊躇しているところを口々に勧められ、おせいは、好奇心の動くのを感じた。全く違った山の手に子供のうちから住み、そんな処にはまるで縁なく育って健介の妻になった彼女には、また何時そんな折があるかも分らなかった。
「……行って御覧になりますか?」
 彼女は、若し健介がいやだと云えば、忽ち断る積りで夫の顔を見た。
「物好きだね。――じゃあ御面倒をかけますかな」
 小関は、如何にも自分達の申出が受けられたのを喜ぶ風に見えた。
「いらっしゃいとも。何にせ東京名物の一つですからね」

 今日の一般の人を心から考えさせた事件だと思います。あそこに預けられた子供の率をみると去年は一躍二百余名に上り、そのうち八〇パーセントが殺されました。昨年このようにあずけられる子供の数が増えて殺された率も多かったということと、私達は政府が十一月には国民家計が三百円黒字になるといわれたことを深刻に思いあわせます。丸公が値上げになったために一般家計が窮迫しはじめたのも昨年中のことです。
 寿産院にあずけられた子供が正当な出生の子供でないということが、まるで子供が殺されても仕方がなかったというようにあげられています。しかしあの中には正当な結婚から生れた子供もいたようです。正当な子供、正当でない子供というのは子供にとってどんな区別があることでしょう。どういう男女の間から生れてもそれは人間の一人の子供であって、“生れた”という言葉は絶対にこの世に現われた子供が自分で自分を生んだのではなくて受身にこの世に送り出された関係を語っています。まして私生子というような区別を戸籍の上にさえおかない様になってきている今日、子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります。婦人少年局ができて婦人と小さい人の全生活に関する調査や提案を政府に向ってすることになりました。経済難と子供の生命の問題は婦人局にとっても基本的な問題だと思います。国家が社会施設として育児院、産院、託児所を設けなければならないということは、寿産院の事実ではっきり示されています。

  海辺の五時

夕暮が 静かに迫る海辺の 五時
白木の 質素な窓わくが
室内に燦く電燈と
かわたれの銀色に隈どられて
不思議にも繊細な直線に見える。
黝みそめた若松の梢に
ひそやかな濤のとどろきが通いもしよう。
午後五時
いまだ淡雪の消えかねた砂丘の此方
部屋を借りる私の窓辺には
錯綜する夜と昼との影の裡に
伊太利亜焼の花壺
タランテラを打つ古代女神模様の上に
伝説のナーシサスは
純白の花弁を西風にそよがせ
ほのかに わが幻想を誘う。

  新らしい私の部屋

新らしい六畳の小部屋
わたしの部屋
正面には
清らかな硝子の出窓をこえて初春の陽に揺れる
松の梢や、小さな鑓飾りをつけた赤屋根の斜面が見える。

左手には、一間の廊下。
朝日をうけ、軽らかな息を吸いつつ
此処に立って髪を結ぶ私の嬉しさ。
机に居ても 空は見え
畳に座しても
大どかな海の円みと
砂のかおりが
頬のあたりに そっと忍びよって来る

ああ、
新しい部屋のうち
新らしい人生へのときめきを覚えて
見えない神に笑みかける私の悦びを
誰に伝えよう。
夜の来た硝子の窓には
背に燈火を負う私の姿が
万年筆の金冠のみを燦然と閃かせ
未生の夢に包まれたように
くろく 静かに 写って居る。